自分は何者であるか?

タイトルほど大げさな話ではありません。
 
土曜日、月一恒例のとらじゃフルアコースティックジャズライヴにお越し頂いたお客さま方、有り難うございました。なんだかんだ言いつつ、気付くと24回目、とらじゃでお世話になって丸2年となりました。我々のライヴを聴いて、僕のギターを聴いてひとりでも喜んでいただけるなら、演奏者として続ける甲斐があります。有り難いです。
 
ライヴに聞きに来てくれたあるお客様が僕のギターを聴いて、「彼は何ギターなの?」と言っていたと後で聞きました。我々のユニット(仲間内では「とらじゃず」と呼んでいる)のボーカルの方も「秋山さんのギターは普通のジャズギターと違う。」といいます。普通のジャズギターって何?とか、ふつうっぽく弾けなくてごめんね~、などど突っ込みたくもなりますが、そのときは「ギターのタイプをジャンル分けしなくてもいいんじゃない?」と言って、済ませました。自分のギターって何?→自分は何者?いい歳して何やってるの?と、久しぶりに悶々としてきました。
 
ところで、昨日娘の通っている近所の音楽教室の発表会がありました。ピアノの独奏や連弾、ピアノ伴奏でのサックスやバイオリンの演奏などいろいろな発表がありました。今回娘はフルート独奏(オネゲル作曲「牝山羊の踊り」)で参加しました。普段ライヴでは僕はギター独奏を余りしないのですが、やはりこのような小さな発表会であっても独奏の凄さを感じました。アンサンブルにはアンサンブルでしかなし得ないものが勿論ありますが、同様に独奏の重要性も忘れてはいけないな、と改めて思いました。いわゆるクラシック音楽であって譜面通りであっても、インプロビゼーション主体の音楽であっても、でたらめではない、出したい音で人に伝わる音で表現するということをもっと鍛錬しなければいけないな、と思うわけです。で今自分の居る状態が特に独奏において如実に出ると思うのです。逆に、ジャズは即興演奏が魅力というが譜面通りに演奏するジャズの名演奏や、即興性を要求されるクラシック音楽もある(古典音楽の劇音楽や、近代以降の協奏曲、現代音楽などで即興は重要)。譜面通りであろうが即興だろうが独奏やアンサンブルの中ででたらめではない、ある制約の中にありながら音で表現することに魅力を感じる訳です。その表現力を磨く上で、独奏の経験を積むことが今の自分には必要だなと思います。勿論、独奏であっても周りとの関係性は大事であるし、そういう場に自分を置かないとなあ…。
 
さて先の自問ですが、自分は何者か?やはり表現者という面からは僕の音楽的な姿勢、アプローチはジャズであると言っていいような気もします。「普通」であるかは分かりませんがね。周りとの関係性の中で感じたものを音で表現しているだけです。それは人によってはクラシックだとか、ロックだとか、ファドだとか、タンゴだとか、ルンバだとか、サンバだとか、言うのかもしれない(ここでは音律やリズムや形式は置いておく)。音を表現の手段として一番に用いたい人は音楽家であり、僕にとってはその道具で一番近くにあるのがギターであるということ。「リズムは生命に対応するものであり、リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ。リズムは音楽の基礎であるばかりでなく、音楽の生命であり、音楽を超えた存在である。」(芥川也寸志著「音楽の基礎」から引用)という言葉に強くうなずく。自分は音楽家で、ギタリストでありたいと思います(なんで?と言われると困るが)。そして楽器をコントロールする術と音楽に向き合うための心とを培うことができているか、27年間も師匠に客観的にチェックしてもらってきていますが、してもらうだけでなく、少しはそういうことで周りの力にもならないと、と最近思い始めてもいます。まだまだ空回り状態ですが。
 
で結局、「彼は何ギターなの?」と問われても、やっぱりジャンルってよくわからない。周囲が勝手に付けるものとしか言いようがない?